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進化論とはダーウィンの仮説
 「霊魂」や「仏神」といった宗教的な事柄について考えると、自然と議論になるのが、「進化論」です。
 キリスト教では、この「進化論」が大論争となり、授業で進化論を教えた教師が裁判になる事件さえ起きておりますが、まず初めに述べておくこととして、「実は進化論は決して科学的真理に裏付けられた理論ではない」ということです。
 世界中の多くの方々が、「『種の起源』によってダーウィンが出現して以来、進化論は既に科学によって実証済みである」と考えているようですが、実は進化論は一つの理論であり、主張であり、あくまでもダーウィンの仮説にしか過ぎないのです。
 それにダーウィンによれば、生物は長い時間をかけて、ゆっくりと進化の道を辿っているはずなのですが、実はそれは科学によって解明されたわけではなく、今でも謎のままであるのです。
 たとえば今からおよそ5億4200万年~5億3000万年前に、突如としてこの地球上に、動物の体制が整いました。この突如の動物の発生を、「カンブリア爆発」と言います。
 「カンブリア爆発」によって、三葉虫は三葉虫として、カイメンはカイメンとして、二枚貝は二枚貝として、いきなり完全な形で出現し、進化途中の動物の化石は欠片さえも発見されていないのが、実は真相です。
 つまりダーウィン出現以来、様々な調査がなされて、「アメーバーからどの様に人間は進化したのか?」ということが検討され、膨大な量の化石が収集されてきましたが、しかし実はそれらの化石はどれも、進化論を肯定するものではなかったのです。なぜなら進化途中の段階にある化石など実は一つも存在せず、生物は全てかなり進化を遂げた状態で、突然、出現していることがわかったからです。
 進化論によれば、「キリンは高い所の葉を食べるために、徐々に進化して首を長くしていった」と考えるのが自然なのでしょうが、しかし首の長いキリンや首の短いキリンはいても、その中間の進化途中のキリンの化石は、未だに発見されていないわけです。
 そして「ミッシング・リンク」、これは「失われた環」という意味ですが、猿と人間を繋ぐ化石も未だ発見されていません。最後の氷河期であった約四万年前から、ホモ・サピエンスと呼ばれる私たち人間が登場したと言われておりますが、人類の脳の容積は少なくとも約百万年前から一定であったことが、化石の発掘によって既に解っています。
 また精子と卵子が結合して、お腹の中で胎児は成長していきますが、その成長過程がアメーバーから人間への進化の過程を経ていると言われて来ましたが、これも今では否定されているそうです。
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プロフィール

与国秀行

Author:与国秀行
 少年時代は愚かなことに派手に街で暴れ回っておりました。
 高校卒業後は、本を片手に北は山形から南は沖縄まで、アルバイトをしながら日本各地を放浪し、独自の学習と経験を積み重ねました。
 東京に戻り、父親が経営する飲食店を援助しますが、バブル崩壊によって倒産、アルマーニしか着ない成金生活から、一気に貧乏生活に急落しました。
 一時は原付のヘルメット入れに荷物を入れて、親戚の家を泊まり歩く、半分ホームレス生活となりました。
 やがてネズミが這い回るラーメン屋の倉庫で寝泊りし、皮パンを食い破られる生活も経験しました。
 ボランティア団体で障害を持たれた方々に奉仕活動をしながら、ラーメン屋を営み、一時はマスコミで騒がれる人気店となるものの自ら閉店いたしました。
 それまでは物事の善悪が分からずに暴れまわり、そして「男として生きるならば強くなければならない、そして強い男とは肉体的に強いのであり、それは喧嘩にも負けない男だ」などと、誰に教わるでもなくそんな価値観に染まり、いつしか自分自身を見失っていました。
 しかし「幸福の科学」という新興仏教に出会い、己の心と向き合い、そして闘うことで、私は人生を悔い改め始めたのです。
 そして結婚を機にかつての「谷山」という悪名を捨て、「与国」と名乗り、今では全く異なる人生を歩んでおります。
 かつては他人のことを思うことがあっても、それは憎しみ、妬み、怒りなどばかりで、人から見られたら恥ずかしい想いで一杯でしたが、しかし仏教による心の学習を積み重ねていくことで、いつしか私は「心穏やかな普通の暮らし」を手にしていたのです。
 しかしそれでも世の中を見渡してみると、間違った宗教が世に蔓延り、そしてそうした間違った宗教が、これまで社会的事件さえ犯してきたために、「宗教が人間教育の原点である」ということが忘れられて、人々は「宗教」という言葉を耳にするだけで逃げていきます。
 そして親殺し、子殺し、猟奇的殺人、無差別殺人など、心の貧しい殺伐とした時代が続くどころか、毎年、毎年、少しずつ時代は酷くなっています。
 そしてそんな悲しい時代の流れの中で、「悟り」という苦しみを断ち切る刃を持つことができずに、心苦しまれている方で世の中は溢れかえっていますし、かつての私の様に畳の上で死ねないような生き方をしている人もたくさんいます。
 しかも悟りを与えるべき坊主どもは、相変わらず冠婚葬祭や観光事業にばかり精を出して、本来の仕事を忘れています。
 こうした乱世を目の当たりにして、私は「これまで学んできた心の話を書いて、少しでも乱れた世を鎮めようとよう」という想い立ちます。
 しかし無名な人間がいくら心について書いたところで、抹香臭い宗教的な話など誰も見向きしてはくれず、乱世は激しさを増すばかりです。
 その一方で年末になれば、テレビでは格闘技ばかり放送しています。
 私たち人間が幸せに生きていくためには、正しい心について学び、そして自らの心に目を向けて闘うことであるというのに、しかし世の中から心の闘いは忘れ去られて、「他人の肉体の戦いに目を向ける」という格闘技ばかりが流行しているわけです。
 そこで私は格闘技には一切興味も関心もなかったのですが、宗教とは真逆に位置する格闘技の試合にあえて出場しました。
 ・「ジ アウトサイダー」
 ・シュートボクシングの試合
 それはブログなどで宗教に対する誤解や偏見を取り除く文章を書いて、多くの人々に読んでもらい、ほんの少しでもこの日本に深く根付いた宗教アレルギーを取り除く為です。
 試合結果は共に胸骨や肋骨が折れ、惨敗するものの、しかしこうした試合を切っ掛けにブログのアクセス数を伸ばし、雑誌等にインタビューや手記を載せて、現在は少しだけ受け入れてもらうことになりました。
 そして2009年5月、幸福実現党が立党され、私は自分の哀れな過去に対する罪悪感から、一度は「やめよう」と思うものの、しかし「今は国難の時であり、放っておいたら誰もやってくれない」と、批判も誹謗中傷も覚悟の上で出馬を決意しました。
 なぜなら宗教に対するアレルギーを取り除こうとしているうちに、いつしか私は中国の覇権主義が迫ってきていることを知り、そして北朝鮮の核兵器の実験が起こったからです。
 ですから私も最初から政治に対して興味や関心が深かったわけではありません。
 多くの方々がそうであるように、かつての私も政治に対しては無知であり、そして平和ボケを続けていました。
 ですから「北朝鮮は恐ろしくても、やがてあの国は崩壊するだろうし、きっと中国は平和な国なのだろう」と考えて、私の興味や関心は宗教紛争にばかり向いていたのです。
 しかし学べば学ぶほどに、実は日本が平和ではなく、このままでは日本が本当に無くなってしまうかもしれないという国難であることを知ったのです。
 だからこそ第四十五回衆議院選挙に、私は東京12区から出馬したのです。
 結果は惨敗でしたが、しかし多くのことを学ばせて頂きました。
 そして選挙が終わり、妻と食事して家に帰る途中、何者か知りませんが、見知らぬ暴漢に襲われ、救急車で運ばれ、左目の視力をほとんど失ってしまいました。
 確かに私は33歳のケツの青い若造です。
 そして確かに私の左目は、もうほとんど見えません。
 しかし善と悪、贅と貧、生と死、健と病、そして俗と聖を、この左目は見てきました。
 そしてこの数年間、私は「学ぶ」ということを、遊びよりも、快楽よりも、趣味よりも、出世よりも、お金より、名誉よりも、友や両親さえよりも、何よりも上において生きてきました。
 ですからたとえ左目が閉じようとも、私の心の目にはすでに少しばかりの光が見えるのです。
 こんなもの、カスリ傷に過ぎません。
 そして私も学んでみて、初めて気がついたのですが、日本は今までに無い国難の時代を迎えています。
 ですから日本国民の皆さん、どうか政治離れをやめて下さい。
 そしてつまらない宗教アレルギーを取り去って下さい。
 そうでなければ、日本に明るい未来は絶対にありません。
 これからも私は、少しでも私が生まれてきたより、この世の中を良くするために、そして明るい未来を築いていくために、これからも命がけで闘って生きたいと思います。

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